そのゝち父は本多殿にお預けになったが、本多殿が父に向って、秀頼様はお年も若く、事の是非を知ろしめす筈はござるまいに、由なき戦を起されて縄目の耻を受けられたのは笑止でござると云うと、いや/\、某は天下の形勢を考え、徳川殿を亡さずんば豊臣家のために宜しからずと思案いたし、諸大名を語ろうて軍勢を催したのでござったが、あまり心の進まぬ輩を強いて味方に引き入れしばかりに、大事の瀬戸際に敵に内通する者が現れ、勝つべき戦に後れを取ったのが無念でござると云うので、智将は人の和を計り、時勢を知るとこそ申せ、諸将の同心せざるをも顧みず軽々しく事を起され、敗軍に及んで自害もなさらずに召し捕られるとは、日頃の御身にも似合わしからず存ずると、重ねて本多殿が云うと、汝は武略を露知らざる者よな、汝の如き者に大将の道を語るとも耳には入るまじと、そう云ったきり父は堅く唇を閉じて、再び物をも云わなかったと云う話。
毎日それらの話が見て来たように伝えられたが、二十六日の日に、内府殿が秀頼様へ御挨拶のため大坂表へ御出ましになり、それと共に父も大坂へ送られたことが知れて来た。
道中は柴田左近、松平淡路守の二人が護衛して、父は小西殿や安国寺殿と一緒に、首に鉄を箝められ、罪人の乗る車に乗せられて、大坂へ着くと町を引き廻された上、今度は堺へ送られて、そこでも町を引き廻された、そうしていずれ明日あたりは、京都の町を廻されるだろうと云うのである。