けれどもそれが行者の口から語られたときは、断片的に、前後のつながりや順序もなしに、その日/\の気分の工合で偶発的に洩らされたのであったかも知れぬ。
恐らく或る時は問いに応じて、又或る時は自分の方から興を湧かしてしゃべったことを、後に娘が成人してから一つの物語に組み立てたのであったろう。
聞書の筆者源太夫が嵯峨の尼から聞いたものは、即ち彼女が頭の中で一往編輯し直したところの説話であって、順慶の直話ではないのであるから、そのつもりで読んで戴かねばならないが、しかし私はそれをもう一度現代の読者に取次ぐに当って、如何なる形態を選んだらよいか迷うのである。