一 ざとうしゆ参候はゞ御さか月給ひ御ひき給候べく候、あなたがたに候はんずるざとうしゆ参候はゞ御ねん比は候べく候、なれ/\しくは御おき候まじく候、ついでに心へ候へ、ざとうとてもおとこのめのくらきにて候、女中がたへあんないなしに立入物にてはなく候、(中略)きんねんざとうと申せばいづれもおくがたへ参候、心へがたく候へども御国ぶりにて候まゝ一人して申されず候、たゞしみん一など参候はゞ御心やすく御よび候てもくるしからず候、おさなくより御しり候、又としよりぬるがふつゝかの物にて候、御ねんごろよく候べく候、さ一これ又おなじごときの物にて候、その外はなれ/\とはめし候まじく候、さて候ともざとうしゆなど三こんなどのうちには御しやうばんにはめし候まじく候、御つぎにて給候か、又御またせ候てのちに御さかな給候て、くこん給候べく候
此の筆者幻庵は北条早雲の子であって名を長綱、法名を宗哲と号し、天正十七年九十七歳の長寿を以て卒去した人で、此の書は北条氏康の娘、即ち幻庵の甥の子に当る女子が武州世田ヶ谷の吉良氏朝に嫁ぐ時に、彼女に与えたものであると云うが、「近年座頭と申せばいづれも奥方へ参候、心得がたく候へども」とあるのを見れば、家臣と雖も男子は禁制されていた玉簾の奥ふかきあたりへ座頭ばかりは自由に出入を許されていたのである。
幻庵は此の風習に禍根の存することを憂えて、「座頭とても男の眼のくらきにて候、女中方へ案内なしに立入るものにてはなく候」と云い、「なれ/\しくは御置き候まじく候」「なれ/\とは召し候まじく候」とも云い、彼等に酒肴を賜うのにも「御つぎにて給候か、又御待たせ候て後に御肴給候て」などゝ細かい注意迄しているが、但し古くより召し使うて素性や気心の知れている「みん一」とか「さ一」とか云う者共は此の限りにあらずとして、「御心易くお呼び候ても苦しからず候」と云い、絶対には禁止していないのである。