此の芳野山の花の宴は、太閤殿下が栄華の盛りを極められました御遊のことゝて、かの醍醐の花見と共に今も人々の語り草になっておりますくらい、当時は朝鮮の戦も止みまして、四海波静かに、供奉の方々も太平の春を喜んだのでござりまして、関白殿とのおん仲もまだその頃はお睦じゅう見えましたのに、それより僅か一年を隔てゝあのようなことが起りましょうとは、淵瀬を定めぬ世の習いとは申しながら、全く人の身の上は分らぬものでござります」
それなら秀次が、いつ頃から太閤に対して逆心を蔵するようになったか、どうしてそう云う疑いを招くに至ったかと云うのに、順慶の語るところは左の如くである。
「もとより愚僧は左様なことを探りますのが役目でござりましたから、始終気を配っておりましたけれども、たゞ何となき世の取り沙汰につれまして、お城の方々も眼に見えぬ影に怯えられ、殿のお行末をお案じ申す御家来衆が寄り/\密議を凝らされるなど、怪しいと云えば怪しいけはいがあったと申すより外に、これと云う證拠はござりませなんだ。