尤も、当時お城には、太閤殿下より後見役として中村式部少輔どの、田中兵部大輔どのを附けて置かれましたのに、此の二た方が兎角かれこれと諫言なされましたのを、うるさく思し召しましてか、御前を遠ざけてしまわれましたので、そう云うことが自然殿下のお耳へ這入り、御気色を損ずる因になったのでござりましょう。
それから、木村常陸介と申すお人、このお方は隼人佑殿の総領の子にお生れなされ、本来ならば重いお役にも任ぜられるお家柄でござりましたが、治部少輔殿に寵を奪われた恨みから、秀次公へ取り入って、謀叛をおすゝめなされたのだと申します。
それも一向たしかなことは分りませぬが、或るとき殿が御所労の気味で籠っておられました砌、密かに奥御殿へおいでなされて、御前の人々を退けられ、おん枕辺へ近々と寄って、恐れながら、斯様なことを申し上げるにつきましては、もし御承引なさりませなんだら、何卒某を此の場に於いてお手討ちになされて下さりませと、そう申し上げて、さてひそ/\と囁かれますのには、太閤殿下の御恩を蒙り給うことは海山にも譬え難う存じますけれども、先年若君が御誕生になりましてからは、我等のひがみかは存じませぬが、何とやらん御間柄が疎々しゅうなられたように覚えます。