そのゝち大坂のお城では、水差の蓋が急に見えなくなりましたにつき、誰かゞ粗匇をしたのであろうと、取り敢えず金細工の者に仰せつけられ、黄金の打物を以て代りの蓋をお作りになりましたが、後年関白殿が滅亡のとき、聚楽のお城を缺所になされましたら、お道具の中から紛失の品が出て参りましたので、お取り調べがござりまして、常陸介の仕業であることが始めて知れた由にござります。
されば満更あとかたのない話ではござりますまいが、御家来衆は兎に角として、殿様が左様な企てに耳をお藉しになりましたかどうか。
中村田中の二人とは違うて、常陸殿とはお気合いの仲でいらっしゃいましたから、一時はお迷いなされたことがあるのでもござりましょうか」