それで大いにお驚きなされ、殿下へ言上なされますと、関白に何の遺恨があろうぞ、定めし讒者の仕業であろうと仰っしゃって、お取り上げになりませなんだが、いや/\、そうとばかりは申せませぬ、思いあたる節もござりますから、先ず某が密々に調べてみましょうと申されて、田中兵部大輔どのへお使者をお立てになりました。
その頃兵部殿は、関白殿の御機嫌を損じまして、河内の国の堤普請の奉行を勤めておられましたが、治部殿より急の御用とお聞きなされ、夜通しにて馳せ付けられましたところ、着くとそのまゝ『此方へ』と仰っしゃって、奥庭の亭へお通しなされ、あたりに人を一人も置かず、さし向いにおなりなされて、田兵殿、今度ばかりは御辺の命を三成が助けて進ぜるぞと、いきなりそう云う御挨拶でござりました。
兵部殿は何の事やら合点が参りませなんだので、異なことを仰せられるではないか、御辺に助けて戴くような覚えはないがと申されますと、いや、今度の一大事に、本来ならばとても命は逃れぬところ、しかし日頃の誼みを以て、御辺の首は某がつないで上げたのだと、重ねて申されましたので、兵部殿は顔色を変えられ、何と云われるぞ、不肖ながら某のことを御前に於いて悪様に申すような者は、日本中に一人もいようとは存ぜぬ、たとい讒言する者があっても、上様がお用いになる筈はない、御辺は近頃出世なされて、何事も思うがまゝになるからと云うて、命を助けたの首をつないでやったのとは、ちと廣言が過ぎるではないか、もしほんとうに何ぞのお咎めを蒙っているなら、御辺に助けて戴かずとも、某御前に罷り出て申し開きをいたそうし、それでもお許しがない場合には、立派にお手討ちになり申そう、謂われのない恩を着るのは嫌でござると、刀の柄に手をかけながらのお言葉であったと申します。