秀次は木食上人に会うて涙に咽び、われかゝる事のあるべきとは思いも寄らず、世にありし時心を附くる事もなくて、今更あさましゅうこそ候え、みずからが露の命、早や極まり候えば、只今にも伏見より検使あらば自害すべし、亡からん跡は誰をか頼み申すべきと云いもあえず、ふたゝび涙を流したので、上人承り、御諚にて候えども、此の山へお登りなされ候上はいかで御命に障り候べき、たとい太閤御憤り深くましますとも、当山の衆徒一同にて申し上げ、御一身を乞い受け奉るべしと云ったが、検使は福島左衛門大夫、福原右馬助、池田伊豫守を大将としてその勢五千餘騎、文禄四年七月十三日の申の刻に伏見を立ち、十四日の暮方に高野山へ着いて、上人を始め一山の老僧共の命乞いに耳を貸さず、青巌寺をひた/\と囲んだ。
で、翌十五日の巳の刻ごろに主従最後の盃を交し、家臣のうちの若年の者から腹を切った。
第一番は山本主殿、二番は山田三十郎、三番は不破萬作、以上の三人はいずれも漸く十八歳の少年で、日頃特別の寵愛を受け、契りの程も浅からぬ者共であったから、主殿には国吉の脇差を、三十郎には安川藤四郎の九寸八分を、萬作にはしのぎ藤四郎を与え、秀次自ら介錯したが、中にも萬作は天下一の美少年の聞え高く、雪より白く清げなる肌を押し開いて、左手の乳の上に脇差を突き立て、右手の細腰まで引き下げたところを、首を刎ねた。