秀次の末路、及びその家中の武士共の或は滅び、或は離散した状況は大体上記の如くであるが、順慶の藪原勾当は如何にしたかと云うのに、彼は七月八日の夜、秀次が聚楽を出た後でその公達や妻妾たちが徳永式部卿法印の館へ移されるのを見届けてから、伏見にある舊主の邸の門を叩いて、拝謁を願い出たのであった。
と云うのは、元来自分は治部少輔の臣であるから、関白家が亡びた今は、一往舊主の許へ返り、己が一身の処置について指揮を仰ぐのが当然であると、左様に考えたからであったが、しかし順慶がそう云う行動を取るのには、少からぬ勇気を要したことであろう。
なぜなら彼は、何一つとして舊主のために手柄を立てゝいないのみならず、去ぬる文禄三年の秋、わざ/\邸へ呼びつけられて怠慢の廉を咎められ、厳しい叱責を蒙った折には、畳に額を擦りつけて詑び言を述べておきながら、その後も当らず触らずの報告を差し出したぐらいなことで、格別信任を取り返すような働きをせずにしまったことを思えば、たとい戻って行ったところで、舊主が喜んで迎えてくれる筈はないし、悪くすれば罪科に問われるかも知れないからである。