二番には小上﨟の御方御妻御前、十六歳、三番には中納言の局御亀御前、三十三歳、四番にはおわこの前、十八歳、五番お辰の前、六番おちゃの前、七番おさこの前、―――三十二番にお三、三十三番に津保見、三十四番に於知母と云うのを最後にして、そのうち三十人までは辞世の和歌を書き遺して斬られる。
それらの一人々々が詠んだ歌の文句、淋しいうちにも何処か花やかな感じのする装束の有様、「あはれなるかな悲しひかな、かく痛ましくあらんと兼て思ひなば、見物に出でまじき物をと、千悔の声々も多かりけり、廿餘人伐かさねければ、河水も色を変じたり」と云うその日の河原が如何にきらびやかな地獄絵巻を繰りひろげたか、―――私は実は、「聞書」が伝える順慶の直話に依ってその光景を紙上に再現し、併せて順慶が、弓矢を捨てたのみか琵琶をも捨てゝ、或る時は悔い、或る時は怒り、或る時は悟り、或る時は狂いつゝ、遂に一生かのおん方の幻影を盲いた眼から消すことが出来ず、迷いに迷って塚守になったいきさつを、もっと委しく書き記したいのであるが、それらはいずれ「聞書後抄」と題し、他日筆硯を新たにして再び稿を続ける折もあるであろう。
即ち茲に物語ったところのものは、纔かに源太夫が「聞書」の前半に過ぎないのである。