それから河内の国篠崎の故郷をあとに立ち出でましたとき、三つになります女の子一人と、男の子一人と、都合二人の子に、妻なる女がおりましたのを振り切って出ました折の心地は、さすがに多年のよしみと申し、名残おしさはどれほどか知れませんでしたけれども、きれいさっぱり世を捨てるのだと思いきわめて、やがて関東へと修行をこゝろざし、松島の寺に三年おりまして、次には北国を廻りましたが、とても、自分のような半出家の者は国々を歩いてどのようなとうとい知識にも逢い、結縁をも願い、そのあいだには名所舊跡を見て胸のうちを慰めよう、それにまた、どうせいつまでながらえられる憂き世の中ではないのだから、歩き倒れて死ぬところまで行ってみようと決心しまして、西国をさして上りますうちに、不思議な縁で河内の国を通りましたので、今頃ふるさとの篠崎はどんな有様になったであろうと、昔の館の堀のほとりへ立ち寄ってうかゞってみますと、築地はあっても屋根は崩れておりますし、門はあっても扉は外れておりますし、庭には草が深く繁って、家と云う家はあとかたもなく壊れてしまい、わずかにあやしい賤の庵が二つ三つ残っているだけで、それさえ雨風をしのげそうにも見えないのです。
私はそゞろに眼もあてられない思いがして、涙を流して通り過ぎようとしましたが、ふとそのあたりにいやしい身なりをした一人の尉が田を打っていますのを見て、これに聞いたら以前のことを知っているだろう、尋ねてみようと思いまして、もし、尉どのよ、こゝは何と云う所ですかときゝますと、尉は着ていた日笠をぬいで、篠崎と申す所ですと答えるのです。
では何と云う方の御領分ですかと、かさねてきゝますと、篠崎殿の御領分ですと云いますから、さては私の一族のことを知っているなと思いましたので、田の畔に腰を休めて、それとなく話しかけましたところが、尉も鍬を杖につきながら、こゝの御領分を持っていらしったお方と云うのは、もとは篠崎掃部助どのと申して何事にも人にすぐれていらしって、楠殿も大切に思し召し、御一族のうちでも取り分け頼みになすっていらしったのですが、その御子息の六郎左衛門どのと云うお方の代に、楠どのが京方へ降参なすったのをお恨みになって遁世なされたぎり、何処へおいでになったのやら今におん行くえも分りませぬ、当時は北国にいらっしゃるとも聞きますし、御他界なされたとも云いますけれども、これと申すたしかな便りがあった訳ではないのです、と、そう云って涙をながしますので、私も涙をおさえながら、そしておん身は身内の人ですか、それとも御領分の人ですかと云いますと、此の尉は年頃御領分の中に住んで百姓をしております者です、六郎左衛門殿が御遁世なされてからは、当所は荒れて、宮仕えをする者が一人もなくなってしまいましたから、わたくしなぞは数へも入らぬ詰らぬ身分ではありますけれども、御台や御公達のおんありさまを拝みますにつけ、あまりおいたわしゅう存じますので、自分の仕事を打ち捨てゝ、此の五六年のあいだ御奉公をいたしております、六郎左衛門殿の御遁世の折、三つになっていらしった姫君や幼い若君を振り捨てゝお出ましになったので、二人のお子を、母御がとかく苦労をなすってお育てになっていらっしゃいましたが、此の上﨟さまもあかぬ別れの思いをなすって、そのおん歎きが積ったせいでもありましょうか、とう/\病人におなりになり、去年の春ごろからおわずらいになって此の程じゅうは食事を絶やしていらしったのが、あえなく御他界なされてから今日で三日になるのです、それにつけても御公達のおん悲しみはどれほどでしょうか、はたで見ておりますわたくしでさえ眼もくれ心も消えるばかりに思われます、あれ、あすこを御覧なさいまし、あれに見えるあの松の下にお埋め申してあるのですが、おさない方々は毎日お二人して泣く/\荼毘所へお参りになります、きょうもお供をいたしましょうと申しましたら、いや、きょうは供をしてくれずともよいと仰っしゃいましたので、こうして人なみに田を打っておりますものゝ、これとてもわたくしの身のためではありませぬ、御公達のおん行末を考えましたら、おいたわしくてなりませんので、あの方々のお世過ぎのために田を打っております、そんな訳で此の尉の事をお打ちお打ちとお呼びになって、お打ちでなければ夜も日も明けぬように頼りになさるものですから、わたくしもどんなに有難く勿体なく思っておりますことか、今日もお帰りがおそいのを案じてあの松の方ばかり見守っていますので、田を打つことも一向に身にしみませぬ、と、そう云ってさめ/″\と泣くのでした。