そして附近の古戦場や不破の関趾などを得意になって案内するのであったが、最初に来た時は夏の盛りで、埃っぽい暑い田舎路をボロボロの自動車で彼方此方引き廻されてひどく草臥れたことがあり、二度目に来た時も亦その同じ場所へ連れて行かれ、もう面白くも何ともなくて閉口したことがあった。
と云うのも、余人は知らず、「大阪生れ」と云うことに誇を抱いている幸子は、幼少の頃から豊太閤と淀君が好きなので、関ヶ原の戦には興味が持てなかったせいでもあった。
その、二度目の時は、たしか離れ座敷が新築されたので、披露の意味をもかねて招かれたのであった。