幸子はそのあとで貞之助に、今迄に随分多くの縁談が持って来られたけれども、何と云っても今度のが一番である、此方の希望する条件が総べて備わっていて、地位、身分、生活程度等も、馬鹿げて好過ぎたり悪過ぎたりすることもなく、ちょうど恰好のところで、―――これを逃がしたらもう今度こそ、二度と再びこう云う縁はないであろう、で、丹生夫人の云うように先方がわざと受け身の態度を取り、此方から働きかけられることを望んでいるのなら、此方はもっと積極的に出て見たらどうであろうか、と、何か良い智慧を出して貰いたそうに云ったが、貞之助も、積極的に出ることには賛成だけれども、それならと云ってどうしたらよいか、何しろ肝腎の雪子ちゃんがああ云う消極的な人なのだから、こんな時には寔に困る、実際今夜あたりでももう少し如才なくしてくれるとよいのだが、………と云い、まあ何とか考えて見よう、と云ったきりで、別に名案も浮かばないでしまった。
翌日事務所へ出て行った貞之助は、道修町なら此処からそう遠くない所であるのを思い、何がな適当な口実があれば会社の方へ訪ねて行って縁をつないで置きたい気がしたが、そう云えば昨日の席上で薬の話が出、幸子が、自分の家ではいつも独逸製のヴィタミンB剤とズルフォンアミド剤とを絶やしたことがないのだが、この頃戦争の影響でプロントジールの錠剤や注射液が時々切れて困ることがある、と云うと、自分の会社で作っているプレミールというズルフォンアミド剤の錠剤を是非お使いになって見て下さい、これは多くの国産品のような副作用が絶対になく、効力に於いてプロントジールと変りはないつもりです、それにヴィタミンB剤も会社で作ったのがありますから試して下さい、と橋寺が云って、早速小包でお届けしましょう、と云うことだったので、いいえ、お届け下さらないでも僕が毎日大阪へ出ますから、会社の方へ戴きに上ります、………何卒是非、いつでもお待ち申しますがちょっと電話を戴けば尚好都合で、………と云うような遣り取りがあったのを思い出した。
で、その時はそんなつもりもなく云ったのであるが、家内が昨日お話の薬を早速分けて戴きたいように申しますので、と云って訪ねて行く分には可笑しくあるまいと思案して、その日貞之助は少し早めに事務所を出て堺筋を歩いて行った。