翌日事務所へ出て行った貞之助は、道修町なら此処からそう遠くない所であるのを思い、何がな適当な口実があれば会社の方へ訪ねて行って縁をつないで置きたい気がしたが、そう云えば昨日の席上で薬の話が出、幸子が、自分の家ではいつも独逸製のヴィタミンB剤とズルフォンアミド剤とを絶やしたことがないのだが、この頃戦争の影響でプロントジールの錠剤や注射液が時々切れて困ることがある、と云うと、自分の会社で作っているプレミールというズルフォンアミド剤の錠剤を是非お使いになって見て下さい、これは多くの国産品のような副作用が絶対になく、効力に於いてプロントジールと変りはないつもりです、それにヴィタミンB剤も会社で作ったのがありますから試して下さい、と橋寺が云って、早速小包でお届けしましょう、と云うことだったので、いいえ、お届け下さらないでも僕が毎日大阪へ出ますから、会社の方へ戴きに上ります、………何卒是非、いつでもお待ち申しますがちょっと電話を戴けば尚好都合で、………と云うような遣り取りがあったのを思い出した。
で、その時はそんなつもりもなく云ったのであるが、家内が昨日お話の薬を早速分けて戴きたいように申しますので、と云って訪ねて行く分には可笑しくあるまいと思案して、その日貞之助は少し早めに事務所を出て堺筋を歩いて行った。
会社と云うのは、堺筋から西へ一丁程這入った道修町通りの北側に、土蔵造りの昔風な老舗が多く並んでいる中で、それ一軒だけ近代風な鉄筋コンクリートの建物であるのが直ぐ眼に付いたが、奥から出て来た橋寺は、用件を聞く迄もなく、挨拶を済ますと丁稚を呼んで、これこれの薬とこれこれの薬を幾箱ずつ包んで提げられるようにして持って来るように、と云い付け、ここはお通しするような部屋もございませんから何処かその辺までお供致しましょう、ちょっとお待ちを、と、一旦奥に引っ込んで二三の店員に何事か命じて置いてから、外套も帽子も被らずに出て来た。