そんな話があってから間もなく、幸子はいつぞやのヘニング夫人に飜訳を頼むつもりで、シュトルツ夫人に宛てて一年半ぶりに長文の書信を書いた。
そして、独逸の花々しい戦績は親交国民のわれわれとしても同慶の至りに堪えないこと、新聞で欧洲の戦争の記事を読む毎にあなた方御一家の安否を思っていろいろの噂をしていること、われわれの方は相変らず元気に暮しているが、日本も中国との紛争が収まらないので、だんだん本式の戦争に引き込まれる憂いがあること、あなた方と隣人同士で朝夕往来しつつあったあの時代に比べると、僅かな間に何と世の中が変ったことかと驚くのであるが、又いつの日にああ云う時代が来るであろうかと懐旧の情に駆られていること、あなた方はあの物凄い洪水に遭われたりしたので、日本について或は厭な印象を受けられたかと思うのであるが、ああ云うことは何処の国にも稀にしか起らない災厄であるから、何卒あれにお懲りなく、平和になったら再び日本へ来て戴きたいこと、私たちも一生に一度は欧羅巴の地を蹈みたい念願が切であるから、いつかはハンブルクのお宅をお訪ねする日があるかも知れないこと、殊に娘にはピアノをみっちり仕込みたいので、事情が許せば他日独逸へ音楽修行に行かしてやりたいと思っていること、等々を記し、なお別便でローゼマリーに絹と扇とを送る旨を追白に書いた。
彼女はその草稿を持って翌日ヘニング夫人を訪ねて飜訳を依頼し、又数日後に大阪へついでがあったので、心斎橋筋の「みのや」へ行って舞扇を買い、それをクレプ・ド・シンの生地と一緒に小包便でハンブルクへ出した。