貞之助は、それだけ伺えば大凡そ御牧氏の人となりは分ったようなものの、遠慮のないところを云うと、当方として一番心配に思うのは、結婚してから後の生活問題である、こう云っては失礼であるが、お話に依ると、氏は今日まで親譲りの財産があったから気儘に暮して来られたので、氏自身では、種々のことに手を染められたに拘らず、これと云って成し遂げられたものはないのではあるまいか、とすると、たとい国嶋氏の後援で建築家になられたとしても、果してそれが物になるかどうか不安なきを得ない、仮りにその点は大丈夫だとしても、今の日本はそう云う種類の建築屋さんなんぞの立って行けない時代にあって、この状勢は今後三年や四年では解消しないであろうと思うが、その間はどうして凌いで行かれるか、国嶋氏の斡旋で、父子爵に応分の補助を仰ぐと云うことであったが、この先この状勢が五年も六年も、或は十年もつづくようなことがあったら、そういつ迄も補助して貰えるものではないし、又、そんなことでは結局一生子爵家の厄介者で終ることになるし、それではどうも心細いので、その辺を何とかもう少し、安心出来るようにして貰えないものであろうか、いろいろ勝手なことを云って相済まないが、正直のところ自分達もこの縁談には大いに気乗りしているので、大体貰って戴くことに腹は極めているのであるが、兎も角も来月上京して国嶋氏にお目に懸り、今云った点を確かめて見たいと思っているので、………と、云うような挨拶をしたのであったが、なるほど、よく分りました、そう云う御不安がおありになるのは御尤もです、と、光代は云って、私の一存ではお答え致しかねることもありますから、帰りまして社長にその旨を伝え、将来の保証について必ず御納得が行くような方法を講じましょう、それでは来月お待ちしております、と、そう云うと、折角ですが今夜の夜行で立ちますからと、晩の御飯でもと云うのを断って辞去した。
幸子は十二月の上旬に雪子を誘って京都の清水寺へ行き、妙子のために安産の祈祷をして、お札を貰って帰って来たが、ちょうど申し合せたように、三好からも貞之助の事務所へ宛てて、これをこいさんにお上げになって下さいと云って、中山寺の安産のお守りを封入して来た。
この二つのお札は、お春が折よく使いに来たので、ついでに持たして帰したが、暫く妙子に会わずにいる幸子たちは、その時のお春の話で、妙子が朝夕規則的に散歩に出る外は終日部屋に閉じ籠って神妙にしていること、その散歩も、なるべく街の方を避けて、人通りの少い山路を歩くようにしていること、部屋にいる時は小説を読んだり、久振に人形の製作をして見たり、赤ん坊の産衣を縫ったりしているが、誰からも一通の手紙も来なければ、怪しい電話なども懸って来ないこと、などを知ったのであった。