三月一杯を渋谷の姉夫婦の許で暮した雪子は、結婚の日までそのまま滞留していてもよいのであったが、矢張長くはいる気になれず、それよりは蘆屋の家族たちとこそゆっくり名残を惜しみたいので、月が変るとさっさと此方へ戻って来てしまった。
そして、国嶋からの伝言として、挙式を二十九日の天長節にすること、披露は帝国ホテルで行うこと、御牧側では、子爵は老体のことであるから、嗣子の正広夫妻が代理を勤めるであろうこと、等々の話をした。
猶御牧家の希望として、華美な催しは避けるべきであるけれども、披露だけは家の格式にふさわしいものにしたいと云う申入れがあり、その趣旨の下に案内状が発せられることになったので、当日御牧側は、東京の親戚知友は勿論、関西方面からの出席者も相当の数に達する見込であったが、そうなると自然蒔岡側も、大阪の親戚を始め、名古屋の辰雄の実家種田家の人々なども、あの大垣の菅野未亡人までが出席すると云い出す有様で、近頃派手な披露宴になることが予想された。