何分そう云う場所柄であるから、通って来る者の大半はくろうとで、しろうとの弟子、―――分けても堅儀な家の「娘ちゃん」と云っては数える程しかいなかったが、妙子はいつも舞扇と和服を入れた小型の鞄を提げて来て、稽古場の隅で洋服を和服に着換え、自分の番を待ちながらくろうとたちの間に交って相弟子の稽古を見物したり、顔馴染の芸者や舞妓に話しかけたりすると云う風なので、実際の歳を考えれば別に不思議はないのだけれども、おさく師匠を始め誰も彼女を漸く二十歳前後と見、それにしては落ち着きのある如才のないお嬢さんだと思っているらしいのを、妙子自身は擽ぐったく感じていた。
そこへ習いに来る弟子達は、くろうとでもしろうとでも、近頃だんだん上方の舞が東京の踊に圧倒されて行く傾向のあるのを慨き、このままでは衰微してしまう郷土芸術の伝統を世に顕わしたいと云う考から、山村舞に異常な憧れを寄せている人々が多く、特に熱心な支持者達は郷土会と云うものを組織し、神杉と云う弁護士の未亡人の家に集って月に一回お浚いをする例になっていたが、妙子はその会にも出席して、自分もしばしば舞うと云う程の打ち込み方であった。
貞之助や幸子達も、妙子が舞う時は雪子や悦子などを連れて見物に行ったものなので、自然その会の人々とも昵懇を重ねるようになったが、そんな関係から、妙子が幹事の人に頼まれたと云って、六月の会場に蘆屋のお宅を貸して戴けないでしょうかと云う話を持って来たのは、今年の四月の末であった。