それは妙子にも、容態を見て大凡そ分っていたことであったが、彼女は炎天の路を喘ぎ喘ぎ再び汗を掻いて戻って来ながら、たまに一日往復するさえこんなに大儀であるのにと思うと、おさく師匠があの体でここを毎日往き通いした労苦が、沁み沁み察しられたのであった。
幸子はそう聞くと、もう一度妙子に附き合って貰ってその明くる日に見舞いに行ったが、それから五六日過ぎて逝去の通知が来た。
その時始めて、二人は悔みを述べるために亡くなった師匠の家を訪れる機会を持ったのであるが、これが大阪で由緒正しい山村流の伝統を伝えていた唯一の人、昔南地の九郎右衛門町に住んでいたので九山村と云われた家柄の、二代目を受け継いだ師匠の住居であろうかと驚かれるような、そう云っても佗びしい長屋のような家であった。