幸子はそう聞くと、もう一度妙子に附き合って貰ってその明くる日に見舞いに行ったが、それから五六日過ぎて逝去の通知が来た。
その時始めて、二人は悔みを述べるために亡くなった師匠の家を訪れる機会を持ったのであるが、これが大阪で由緒正しい山村流の伝統を伝えていた唯一の人、昔南地の九郎右衛門町に住んでいたので九山村と云われた家柄の、二代目を受け継いだ師匠の住居であろうかと驚かれるような、そう云っても佗びしい長屋のような家であった。
これでは落魄と云ってもよいような細々とした暮しをしていたとしか思われなかったが、それと云うのも、故人が芸術的良心に忠実で、昔からの舞の型を崩すことを極端に嫌い、時代に順応することをしなかった、一と口に云えば世渡りの下手な人だったからであろうか。