その時始めて、二人は悔みを述べるために亡くなった師匠の家を訪れる機会を持ったのであるが、これが大阪で由緒正しい山村流の伝統を伝えていた唯一の人、昔南地の九郎右衛門町に住んでいたので九山村と云われた家柄の、二代目を受け継いだ師匠の住居であろうかと驚かれるような、そう云っても佗びしい長屋のような家であった。
これでは落魄と云ってもよいような細々とした暮しをしていたとしか思われなかったが、それと云うのも、故人が芸術的良心に忠実で、昔からの舞の型を崩すことを極端に嫌い、時代に順応することをしなかった、一と口に云えば世渡りの下手な人だったからであろうか。
聞けば初代の鷺さくさんは嘗て南地の演舞場の師匠をしてい、あしべ踊の振付をしていた人なので、初代が死んだ時に二代目のおさくさんにも廓の師匠となってくれるように話があったのだそうであるが、故人は真っ平御免だと云って断った。