と云うのは、当時は藤間や若柳の派手な踊が全盛の頃で、廓附きの師匠になれば自然廓の役員からさまざまの干渉を受け、当世風に舞の手振を改変することを余儀なくされる、それが故人は厭だったからだそうであるが、故人のそう云う狷介な性質が、処世的には大いに禍したのであろう。
そんな風なので弟子の数も少なかったが、幼い時から祖母の手一つで育てられて、両親もなく、芸者時代に落籍してくれた旦那はあったそうだけれどもこれと云う定まった夫もなければ子供もないと云う、家庭的にも至って恵まれなかった人なので、亡くなったと云っても近親の人達が寄り集って来るでもなかった。
葬儀も残暑の厳しい日に、阿倍野でほんの小人数で営まれたが、その人達が殆どそっくり居残って隣の火葬場へ送って行き、お骨が焼けるのを待っている間に故人を偲ぶいろいろの話が出た。