そんな事情で彼女が奥畑との結婚について人知れず思い悩んでいる時に起ったのが、あの水害の事件であった。
彼女はあの時迄は板倉と云うものを、忠実な下僕ぐらいにしか考えていなかった、とまあ云うのであるが、それが、あれから此方、急激にあの男を見る眼が変るようになった。
こんなことを云うと、中姉ちゃんや雪姉ちゃんは、うちをえらい物好きな女のように思うであろうが、それは自分が実際にあの危難に遭遇し、万に一つも助からない筈の命を助けて貰った感激を、体験しないからである、と、そう彼女は云って、啓ちゃんはあの日の板倉の行動を、目的があってしたことだとか何だとかケチを附けるけれども、仮にそうであってもよい、兎に角板倉があれだけの危険に身を曝すには、何よりも先ず自分の命を投げ出して懸ったことであるのに、そう云う啓ちゃんはあの時どんなことをしたか、命を投げ出すどころではない、何一つ親身の情愛を示してくれなかったではないか、と云うのであるが、彼女が心から奥畑に愛憎を尽かすに至ったのも、あの時以来なのであった。