こんなことを云うと、中姉ちゃんや雪姉ちゃんは、うちをえらい物好きな女のように思うであろうが、それは自分が実際にあの危難に遭遇し、万に一つも助からない筈の命を助けて貰った感激を、体験しないからである、と、そう彼女は云って、啓ちゃんはあの日の板倉の行動を、目的があってしたことだとか何だとかケチを附けるけれども、仮にそうであってもよい、兎に角板倉があれだけの危険に身を曝すには、何よりも先ず自分の命を投げ出して懸ったことであるのに、そう云う啓ちゃんはあの時どんなことをしたか、命を投げ出すどころではない、何一つ親身の情愛を示してくれなかったではないか、と云うのであるが、彼女が心から奥畑に愛憎を尽かすに至ったのも、あの時以来なのであった。
なぜと云って、幸子も知っている通り、あの日奥畑は漸く阪神電車が通じるようになってから蘆屋まで訪ねて来、案じられるから様子を見に行って来ますなどと云いながら、結局国道の田中まで来て、僅かな水が出ているために彼処を渡れないでうろうろした揚句、板倉の家へ寄って彼女の無事なことを聞くと、それきり大阪へ帰ってしまったのではないか。
あの夕方板倉方へ現れた時の奥畑は、パナマ帽に瀟洒とした紺背広を着、秦皮のステッキにコンタックスを提げて、こんな時にこんな風をして擲られはしまいかと思うような身なりをしていたそうであるが、あの田中の所の水が渡れなかったのも、折目の附いたズボンを濡らすのが厭だったのではあるまいか。