それにしても板倉は、始終の間直立不動の姿勢をして下を向いたきり、旧主の坊々の前に出ては全く頭が上らない形で、日頃命よりも大切にしているライカが床に転がるのを見つつも自慢の体力や腕力に物を云わせず、じっと怺えてしまったのであった。
貞之助はちょっと楽屋へ顔を出して人々に挨拶をし、妙子の労を犒った後で、直ぐに事務所へ引っ返したので、その時は何の話もしなかったが、その晩おそく、悦子や義妹達が寝間へ引き取ってから、妻にだけ昼間目撃した事件を告げた。
そして、自分の見るところでは、板倉は自発的にか、或はこいさんに頼まれてか、「雪」の舞台面を撮影する目的で、時間を測ってこっそり入り込んだのであろう、が、目的を達して怱々引き揚げようとする間際に、それまで観客席の何処かに潜んでいた奥畑に抑えられたと云う訳であろう、奥畑はいつから入場していたのか分らないが、多分板倉が来ていないかと思ってキョロキョロしていたに違いないから、早くも彼を見付け出して、舞が終るまでの間、ちょうど貞之助が遠くから様子を窺っていたのと同じ時間に、奥畑も亦何処かの隅から眼を光らして板倉を監視してい、彼が退場しようとする機を逸せず掴まえたのであろう、どうも、あの場の光景から判断すると、前後の事情がそうであるらしく思える、と、そう語ったが、それにしても、あの廊下に於ける寸劇を貞之助が傍で見ていたことに、二人共気が付いていなかったのか、或は気が付きながら極まりが悪いので素知らぬ風を装ったのか、その点はよく分らなかった。