貞之助は、妻の眼からとめどもなく溢れ出る涙を唇に受けて呑み込みながら、寝る前迄朗かであった妻が、夜中に突然そんなことを云い出したのに驚かされたが、成る程そう云われて見れば、去年雪子が陣場夫婦の紹介で野村と云う人と見合いをしたのがたしか今月のことであるから、今日あたりがあの流産から満一年になるのかも知れなかった。
が、自分は全く気に懸けてもいないのに、妻が未だに心中深く悲しみを蔵しているのは無理もないとして、こう云う風にいつもそれが発作的に襲来するのは不思議であった。
去年の花見に嵐山へ行った時にも、秋に大阪歌舞伎座へ鏡獅子を見に行った時にも、彼は渡月橋の上だの劇場の廊下だので、こんな工合に、妻が不意に涙を落すのを見、又その後でケロリと直ってしまうのを見たのであったが、その時も矢張そうで、明くる朝になると、幸子は夜中に泣いたことなど忘れたような顔をしていた。