私は笹沼がさう云ふ性質の、殊に分不相応の金を、融通する筈がないことを知つてゐたから、一往取り次ぐことは取り次いだけれども、さう熱心には口説かなかつたし、又笹沼も始めから取り合はなかつた。
それで私はその不結果の報告を齎して、青山北町にあつた恒川の家を久振に訪ねた。
それが、明治年代のことであつたか、大正の初め頃であつたか、その辺の記憶が明瞭を欠くのだが、今も不思議に覚えてゐるのは、その時私は細かい十の字絣の対の大島の袷(これは友人の借り着であつた)に、お召の夏袴を穿いてゐた。
私は笹沼がさう云ふ性質の、殊に分不相応の金を、融通する筈がないことを知つてゐたから、一往取り次ぐことは取り次いだけれども、さう熱心には口説かなかつたし、又笹沼も始めから取り合はなかつた。
それで私はその不結果の報告を齎して、青山北町にあつた恒川の家を久振に訪ねた。
それが、明治年代のことであつたか、大正の初め頃であつたか、その辺の記憶が明瞭を欠くのだが、今も不思議に覚えてゐるのは、その時私は細かい十の字絣の対の大島の袷(これは友人の借り着であつた)に、お召の夏袴を穿いてゐた。