その時平出氏は、「相馬君からかう云ふ返事が来てゐるからまあもう少し待つて見給へ」と云つて私にその手紙を見せて下すつたけれども―――内容は今忘れてしまつたが―――どうも私には心もとないやうな気がした。
と云ふのは、当時はまだ官学と私学との反目が盛んで、殊に赤門と早稲田とは仲が悪かつたのである。
赤門系で早稲田系の文人と親しくしてゐたのは小山内君ぐらゐのもので、一般には、お互に余り交際もしないと云ふ有様であつたから、仮りに相馬氏が私の作物を認めて下すつたとしても、それを「早稲田文学」が引き受けてくれるやうなことは万に一つもあるまいと思へたが、果して予想通りその原稿は握り潰されたのであつた。