しかし、それでも世間に認められるやうになつたのは、翌明治四十三年の三月「新思潮」が廃刊した後、六月の「スバル」に「少年」を書き、七月(?
の同誌に「幇間」を書いた前後からだつた。
その時分になつて、鴎外先生や上田敏先生が「麒麟」や「幇間」を褒めて下すつたと云ふ噂が、ポツポツ私の耳に這入つた。
しかし、それでも世間に認められるやうになつたのは、翌明治四十三年の三月「新思潮」が廃刊した後、六月の「スバル」に「少年」を書き、七月(?
の同誌に「幇間」を書いた前後からだつた。
その時分になつて、鴎外先生や上田敏先生が「麒麟」や「幇間」を褒めて下すつたと云ふ噂が、ポツポツ私の耳に這入つた。