多分先生は、今まで稽古をしてをられて一寸その辺へ散歩に出られたのであらう。
それが如何にも市井に隠れた粋人の住居らしく、先生の自由洒脱な生活振りが思ひやられた)それと云ふのが、柳橋は新橋や赤坂と共に一流の土地であつたけれども、後者は多く華族や大官の遊び場所であつたのに反し、前者の客は主に下町の旦那筋であり、旧幕時代からの伝統を引いてゐるだけに、風俗が意気で阿娜つぽく、おまけに大川と云ふ水の眺めを控へて、ひとしほ微吟低酌の興趣に適してゐたから、無位無官の文人には新橋赤坂よりも親しみ易かつたのであらう。
両国辺に生れた木村や後藤が此の土地に愛着したのは当然であるが、私も五つか六つの時、祖父の三回忌に亀清で盛大な年会が催され、大勢の親戚や出入りの商人たちとその席に連なつた覚えがあり、それが私の最も古い「宴会」の記憶なので、家が微禄してから後、幼い頃の栄耀栄華を偲ぶにつけても、妙に柳橋と云ふところが忘れられないものになつてゐた。