永井氏の前に、近松秋江氏も新聞の月評欄で私の「少年」を褒めて下すつたことがあるけれども、しかしその称讃の程度と云ひ、形式と云ひ、分量と云ひ、既に大家の域にある作家が後輩を推挙するものとして、永井氏の論文の如く花々しいものは前例のないことであるから、予想の如く、そのお蔭で私は一と息に文壇へ押し出てしまつた。
私が初めて原稿料と云ふものを貰つたのは、その前年、明治四十二年の十二月、「スバル」へ戯曲「信西」を書いた時であつたが、これはその同じ月の「新思潮」に吉井君の「河内屋与兵衛」を載せ、「新思潮」から交換的に吉井君へ原稿料を支払ふと云ふ条件が附いてゐたので、普通われ/\の原稿には何処でも金を支払はないのが例であり、現にその後の「スバル」へ載せた「少年」や「幇間」等も、私はたゞで書いたのである。
が、荷風先生の推挙があつてから間もなく、「三田文学」へ「飇風」を書いた時は、黙つてゐてもちやんと先方から稿料を届けて寄越した。