と云ふのは、当時文壇の中心勢力は大体に於いて早稲田派若しくは早稲田系の手に移り、赤門出の創作家は漱石一派を除いては極めて微々たるものであつて、ひとり小山内氏のみが文壇にも劇壇にも幅を利かせてゐたから、後進のわれ/\が若し先輩を担ぐとすれば、此の人を頼るより外はなかつたのである。
これは氏に取つて多少迷惑だつたかも知れないが、劇壇の一勢力となつた氏が、文壇に於いてもわれ/\後進から慕ひ寄られたと云ふことは、必ずしも不愉快ではなかつたであらう。
氏は創刊号に「反古」と云ふ短篇を寄稿されたゞけで、それ以後われ/\の雑誌のために自ら筆を執つてくれたことはなかつたけれども、しかしあの忙しい体で兎も角も一篇の創作を寄せてくれたことを思へば、われ/\に対する関心が尋常でなかつたことは明かである。