(「信西」はその後大正七年頃に初めて上山草人が有楽座に上演し、同十四年頃に至つて漸く左團次が歌舞伎座の舞台にかけた)それからずつと後、大正九年か十年の頃、猿之助が菊池君の「父帰る」と私の「法成寺物語」を以て春秋座の旗上げをした時、私は特に小山内氏の舞台監督を希望し、猿之助もそれに賛成して氏の所へ頼みに行つたが、何故か氏はその依頼を拒絶された。
私はその折も「まだ昔の反感が残つてゐるのかも知れない」と感じた。
しかしかう云ふ関係は私ばかりではないのである。
(「信西」はその後大正七年頃に初めて上山草人が有楽座に上演し、同十四年頃に至つて漸く左團次が歌舞伎座の舞台にかけた)それからずつと後、大正九年か十年の頃、猿之助が菊池君の「父帰る」と私の「法成寺物語」を以て春秋座の旗上げをした時、私は特に小山内氏の舞台監督を希望し、猿之助もそれに賛成して氏の所へ頼みに行つたが、何故か氏はその依頼を拒絶された。
私はその折も「まだ昔の反感が残つてゐるのかも知れない」と感じた。
しかしかう云ふ関係は私ばかりではないのである。