これより先、確か四十四年の秋か冬頃に私は小野賢一郎君の依嘱を受けて「あくび」と云ふ中篇物を東京日日新聞紙上へ書いたことがあつて、これが私の新聞へ続き物を寄せた最初であつた。
東日が私にその紙面を提供してくれたのは、当時社会部長か何かをしてをられた冷洋松内則信氏の御声がゝりもあつたらしいが、小野君の推挽もひそかに与つてゐたことゝ思ふ。
その頃小野君は松内氏の下に働いてをられ、名妓照葉と音峰某の情事を連載して人気を博してゐる最中であつたが、同君の話に依ると、「松内さんは大いに不良少年の文学を歓迎しようと云つてゐるんですよ」と云ふやうなことであつた。