まだ重なお茶屋は大概四条通りの北、新橋方面にあつて、たゞ万亭が今と同じ所、花見小路の曲り角にあつたのを記憶するけれども、その外には女紅場(即ち祇園演舞場、都踊りをやる所)があつたぐらゐで、あの花見小路から今の東山線の電車の走つてゐるあたりは実に淋しいものであつた。
さう云へば真葛ヶ原などゝ云ふものも残つてゐて、高台寺からあの電車通りへかけてひろい野つ原で、ところ/″\に大木が繁つてゐて、その中に一軒風流な構への小料理屋があつた。
或る時私はその料理屋で幹彦君と酒を飲んだら、お酌に出て来たその家の娘らしい女が非常なる文学少女で、頭は島田に結つてゐながら突拍子もない尖端的なことを云ふのでびつくりさせられたことがあつたが、その料理屋もどの辺にあつたのやらもう今日では見当も付かない。