島原の角屋で遊んだ時も岡本さん兄弟と幹彦君と私と四人連れで、七条から丹波口まで汽車で行つたのを覚えてゐるが、その頃の京都の西の郊外は東の方よりも一層人家が疎らであつて、千本通りも四条辺から南は全く片側町であり、西はげんげと菜の花の咲き乱れた野がずつと太秦から嵯峨の方までつゞいてゐた。
私は嵐山電車の窓の中から菜畑を隔てゝ壬生狂言の舞台を見た記憶があるから、あの寺なども多分野原の中に建つてゐたのであらう。
今日活動写真のスタデイオや新建ちの借家や安カフエエなどが並んでゐる三条口の街道は、遠く比叡愛宕の山々が暮靄に霞んで、牛車がゆるやかに野道を練つて行くと云ふ名所図会の絵に見るやうな景色であつた。