正宗白鳥氏は私の藤村嫌いのことを多分知っていて、故意に私に聞かせたのではないかと思うが、数年前熱海の翠光園で相会した時、今読み返してみると藤村の作品に一番打たれるといっておられた。
『中央公論』の名編輯長と謳われた滝田樗陰とは、彼が大正十四年に四十四歳で病死する二、三年前まで、十年前後の附合いであったから、かなり親しくしていたには違いないが、一緒にお茶屋遊びをしたようなことは殆ど数えるほどしかない。
何かの会合の崩れで、近松秋江、長田幹彦、私、それに樗陰が加わって、神楽坂の待合で遊んだことがあったが、誰も懐中は乏しかったので、翌朝連名の手紙を女中に持たせて矢来の新潮社に無心を申込んだことがあった。