が、大正十二年正月号に中篇物を掲載したのを最後として、十四年に彼が病死するまで、遂に彼から原稿の依頼を受けたことはなかった。
それどころか、彼は長文の手紙を二、三度も寄越して、「近頃の君の書くものは感心出来ない」と、かなり露骨にいって来た。
たしかその時分、里見君が『時事新報』に「多情仏心」を連載し、私が『朝日新聞』に「肉塊」というものを連載中であったが、樗陰は「里見君のものに比較して君の作は甚しく見劣りがする、しっかりし給え」というのであった。
が、大正十二年正月号に中篇物を掲載したのを最後として、十四年に彼が病死するまで、遂に彼から原稿の依頼を受けたことはなかった。
それどころか、彼は長文の手紙を二、三度も寄越して、「近頃の君の書くものは感心出来ない」と、かなり露骨にいって来た。
たしかその時分、里見君が『時事新報』に「多情仏心」を連載し、私が『朝日新聞』に「肉塊」というものを連載中であったが、樗陰は「里見君のものに比較して君の作は甚しく見劣りがする、しっかりし給え」というのであった。