すると自分の前の席に、髪の毛の長い学生が坐つてゐて、その人の髪の毛が、時々自分のノオトの上を、掃くやうにさらさら通りすぎた。
自分は相手が名前も知らない人の事だから、どう云ふ了見で、あんな長髪を蓄へてゐるのだか、つい今日に至るまで問ひ質す機会を失つてしまつたが、兎に角それが彼自身の美的要求には合してゐても、他人の実際的要求と矛盾し得る事を発見したのは、正にこの言語学の講義を聞いてゐた時間である。
しかし幸、その講義を聴かうと云ふ、自分の実際的要求がそれ程痛切でなかつたから、髪の毛が邪魔になつた所だけは、ノオトをとらずに捨てて置いた。