僕の信ずる所によれば、我々日本人は日本語の中にも無数の英語を用ひてゐる癖に存外英吉利文芸に親しんでゐない。
なぜ又親しんでゐないかと言へば、一つは英語の普及してゐる為に却て英吉利文芸を軽視することであり、もう一つは又不幸にも英吉利は丁度前世紀末の文芸的中心にならなかつた為に自然と英吉利文芸を等閑に附し易いことである。
しかし前世紀末の英吉利文芸は必ずしも光彩に乏しい訣ではない。
僕の信ずる所によれば、我々日本人は日本語の中にも無数の英語を用ひてゐる癖に存外英吉利文芸に親しんでゐない。
なぜ又親しんでゐないかと言へば、一つは英語の普及してゐる為に却て英吉利文芸を軽視することであり、もう一つは又不幸にも英吉利は丁度前世紀末の文芸的中心にならなかつた為に自然と英吉利文芸を等閑に附し易いことである。
しかし前世紀末の英吉利文芸は必ずしも光彩に乏しい訣ではない。