いつぞや聚楽の御殿へ召された呂宋助左衛門の手代の一人も、確か甚内と名乗っていました。
また利休居士の珍重していた「赤がしら」と称える水さしも、それを贈った連歌師の本名は、甚内とか云ったと聞いています。
そう云えばつい二三年以前、阿媽港日記と云う本を書いた、大村あたりの通辞の名前も、甚内と云うのではなかったでしょうか?
いつぞや聚楽の御殿へ召された呂宋助左衛門の手代の一人も、確か甚内と名乗っていました。
また利休居士の珍重していた「赤がしら」と称える水さしも、それを贈った連歌師の本名は、甚内とか云ったと聞いています。
そう云えばつい二三年以前、阿媽港日記と云う本を書いた、大村あたりの通辞の名前も、甚内と云うのではなかったでしょうか?