卿等にして猶明治十二年六月十二日、独逸皇孫殿下が新富座に於て日本劇を見給ひしの夜、彼、満村恭平が同戯場よりその自邸に帰らんとするの途次、馬車中に於て突如病死したる事実を記憶せんか、予は新富座に於て満村の血色宜しからざる由を説き、これに所持の丸薬の服用を勧誘したる、一個壮年のドクトルありしを語れば足る。
嗚呼、卿等請ふ、そのドクトルの面を想像せよ。
彼は纍々たる紅球燈の光を浴びて、新富座の木戸口に佇みつつ、霖雨の中に奔馳し去る満村の馬車を目送するや、昨日の憤怨、今日の歓喜、均しく胸中に蝟集し来り、笑声嗚咽共に唇頭に溢れんとして、殆処の何処たる、時の何時たるを忘却したりき。