(中略)ブラックは幕末、ジャーナリストたりしその父君に連れられて渡日、父と共に「日新真事誌」なる新聞事業に挺身したが、明治初年、自由民権の演説流行に刺戟され、先ず演説より講談席へ、次いで三遊派一方の重鎮たり得て、大正癸亥の大震前後、没した。
異邦人にして本朝寄席文化史上、大看板の足跡をば残したは、奇術の李彩、音曲のジョンペールと共に、この快楽亭ブラックであろう』と紹介しておられる。
同じ随筆で正岡君はブラックの講談速記本「岩出銀行血染の手形」「流の暁」「車中の毒針」「孤児」「草葉の露」の五冊を所持するといい、ほかに「幻燈」という一冊も持っていたが、疎開のさいなくしたと書いておられる。