かく検して来ますと、我々が今迄犯人と信じ切っていた大江春泥こと平田一郎は、意外にも、最初からこの事件に存在しなかったと考える外はありません。
我々をして左様に信じさせたものは、小山田六郎氏の驚嘆すべき偽瞞であったとしか考えられないのであります。
金満紳士小山田氏が、かくの如き綿密陰険なる稚気の所有者であったことは、彼が表に温厚篤実を装いながら、その寝室に於ては、世にも恐るべき悪魔と形相を変じ、可憐なる静子夫人を外国製乗馬鞭を以て、打擲し続けていたことと共に、我々の誠に意外とする所でありますけれど、温厚なる君子と、陰険なる悪魔とが、一人物の心中に同居したためしは、世にその例が乏しくないのであります。