文久年代、新開地横浜村に移住してきた米人にジョン・ブウリーという男があった。
貿易商人の番頭であったが、後に主人から暇をとって、横浜百五十番館に英学教授の看板をかけ、月謝三分で日本人の弟子をとった。
その広告文が明治元年五月の「万国新聞紙」に載っている。
文久年代、新開地横浜村に移住してきた米人にジョン・ブウリーという男があった。
貿易商人の番頭であったが、後に主人から暇をとって、横浜百五十番館に英学教授の看板をかけ、月謝三分で日本人の弟子をとった。
その広告文が明治元年五月の「万国新聞紙」に載っている。