彼女が叩いていた「樋口」という姓には、又彼女が樋口と呼ばれて何の躊躇もなく返事をした事実には、実はこの物語の根本に関する大きな意味が含まれていたからである。
この書物は、恋物語を書くのが主眼でもなく、そんなことで暇どるには、余りに書くべき事柄が多いので、それからの、私と木崎初代との恋愛の進行については、ごくかいつまんで記すに止めるが、この偶然の会話を取交わして以来、どちらが待ち合わせるともなく、私達はちょくちょく帰りが一緒になる様になった。
そして、エレベーターの中と、ビルディングから電車の停留所までと、電車にのってから、彼女は巣鴨の方へ、私は早稲田の方へ、その乗換場所までの、僅かの間を、私達は一日中の最も楽しい時間とする様になった。