私はここに後來「馬」等々に達した端緒の一つがあると思ふ。
それは空想と云はんよりは實感であり、實感であるよりは實感をあらはすための手段であり、――そしてそれは最後の段階に達して、手段そのものから嘗て一度も人間の頭腦に存在しなかつたやうな「實感」を呼び起す作品を形成する。
「對象を主宰して獨自の世界へ連れてゆく」やうな詩とは畢竟この段階のものを指すに外ならない。
私はここに後來「馬」等々に達した端緒の一つがあると思ふ。
それは空想と云はんよりは實感であり、實感であるよりは實感をあらはすための手段であり、――そしてそれは最後の段階に達して、手段そのものから嘗て一度も人間の頭腦に存在しなかつたやうな「實感」を呼び起す作品を形成する。
「對象を主宰して獨自の世界へ連れてゆく」やうな詩とは畢竟この段階のものを指すに外ならない。