僅か一日かそこらの旅路だつたが、昨日のうちに私の出遇つたかずかずの事物――狐を飼つてゐる男、同じ馬車にゆくりなくも乘り合はせた村の花嫁、馬車の中から眺めてゐたセピア色を基調とした夕暮れの風景、――それ等の事物のおかげで、すつかり旅情が身について來た私は、何んだかこのままずつとこの温泉宿に泊つて居たいやうな氣持にもなつたが、また一方、一日も早く東京へ歸つてもう一度私の娘と仲直りをして見たいやうな、さうかと云つて皆の手前も豫定の旅行だけは濟まして行かないと何んだか氣まりが惡いやうな、へんに複雜した氣持のうちに、私はともかくもその宿を出發することにした。
もう正午に近い。
丁度、私の目指すところの峠を越す乘合馬車が通ると云ふので、私はいそいで早晝餉をすませて、その待合所へ出掛けた。