あの妙に不吉なやうな音、人の魂を慰めようとするやうにヴァイオリンの長く引きのばされた音の中に何處からか不意に飛びこんできたあの奇妙な音、(まるで最初に彈いた「惡魔の顫音」のなかからでもちよいと彈き手の心の弛んだ隙間にまぎれ込んでしまつたやうな)そんな不意打ちにすつかり怯えながら、もうそのヴァイオリンを手にとることさへ出來なくなつてしまつてゐる少女、あの髮の黒い、目の大きな、印象の深い少女、――ああ、何もごまかすことの出來ない、それほど純な少女の心……。
私はもう少女らしい少女なんぞといふものは少くとも自分にとつては此の世に存在しないのかと考へがちであつたのに、今夜ひさしぶりに一人の少女が見事に少女そのものになつて見せてくれたことに、何よりも、彼女の音樂の妙技以上に感動しながら、すこし雨のふつてゐる中をそれさへかへつて快く感じながら、そしていつものパイプを口に啣へることさへ忘れながら、わが家の方へ歸つて行つた。
その翌日も、私はもうそれが習慣になつたやうに、夕方のいつもの時刻になるとその會堂の前を通り過ぎたが、もう自轉車もそこには乘り棄ててなければ、又、ヴァイオリンのどんなかすかな音ももう洩れては來なかつた。