しかし、いますぐ僕には思ひつきませんし、それを調べてみるいとまも今はないので、これで御免を蒙つておきますが、僕がこれまでかうして書いて來たのは、さういふ東西の詩歌の源泉についての考への類似にただ興味を抱いたからばかりではありません。
ただ、或はかういふ日本の古い歌物語だの、或はかういふ西洋の輓近の詩だのを前にしながら、文學といふものの本來のすがたを屡〻見なほしてみたりする事は、あまりに複雜多岐になつてゐる今日の文學の眞只中に身を置いてゐる自分のごときものにとつては、時として、大いに必要なことではないかと考へてゐるからに他なりません。
少くとも、僕は、さういふ古代の素朴な文學を發生せしめ、しかも同時に近代の最も嚴肅な文學作品の底にも一條の地下水となつて流れてゐるところの、人々に魂の靜安をもたらす、何かレクヰエム的な、心にしみ入るやうなものが、一切のよき文學の底には嚴としてあるべきだと信じて居ります。